大田区を通るリニア中央新幹線の【ストップリニア訴訟の第一回口頭弁論】意見陳述

家の真下を通る計画があるのに、まだまだご存じない方が多いのがリニア中央新幹線です。
大田区の場合、洗足池の近くを通りますので、池の水が枯れないか、も気になる所です。
空は飛行機、地下はリニアで、さんざんの大田区だと思うのは私だけでしょうか。資産価値も下がってしまうのではないかと心配している方もいるようですし。
さて、大田区を通るリニア中央新幹線の【ストップリニア訴訟の第一回口頭弁論】意見陳述が行われましたので、ここに、全文をご紹介します。

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意見陳述書

                  原告団団長 川村 晃生

2007年4月に、JR東海が自社費用でリニア中央新幹線を建設するとの構想を発表して以来、私たち沿線住民と一般市民は、まさかここまで事態がこじれるとは予想もしないことでした。そしていま思えば、それはひとえにJR東海という事業者とそれを監督、指導する所管官庁・国土交通省の傲慢さと不誠実さによるものであったと指摘せざるを得ません。

私たちは、これから行われるリニア新幹線の工事によって、さまざまな被害を蒙ることになります。それはこの裁判の過程で明らかになるであろう、残土処理、水涸れ、騒音、日照、景観、電磁波等、多岐にわたるものですが、問題は私たちにそうした実害を与えてもなお、リニア新幹線が必要なのだという合理的説明がなされていないことであり、一方的にリニア新幹線を造ることが前提となって事態が進行していることです。従って当然のことながら、私たちはそれに合意できようはずもなく、私たちの理解が得られないまま着工に至ったのでした。

さらに私たちは、この工事によって、それとは別に大事なものを失うことも強調しておかなければなりません。その最も象徴的なものは、南アルプスのトンネル掘削による自然破壊でしょう。神々しいまでに美しい威容を誇る南アルプスは、これまで先人たちが敬い、愛してきた大きな自然遺産です。そしてそうであるがゆえに、ユネスコのエコパーク登録も可能になったのでしょう。自然と人間が共生可能な場として高く評価されたエコパーク・南アルプスに、大きなトンネル穴を開けて、在来型新幹線の数倍ものエネルギーを消費して、時速500㎞で通過させようというのですから、リニア計画は自然に対する冒瀆以外の何ものでもないと言ってよいでしょう。そしてここでも問題は、それほどの犠牲を払ってまで、リニア新幹線が必要なのだという合理的説明がないことです。

以上の状況を日本国憲法に照らして言えば、私たちは憲法によって保障されている生存権や人格権また幸福追求権を一方的に侵害されているということに他なりません。

いったい、なぜリニアが必要なのかと言えば、東海道新幹線の輸送力の限界とか老朽化といった、真実とは程遠い偽りの理由がいくつも数え上げられ、本音を吐かせれば東京〜大阪間を高速で結んで7000万人のメガロポリスを作るという、他愛もない欲得ずくの理由が透けて見えてきます。巨大都市を作って、国民をひたすら東奔西走させ、あくせく働かせることによって経済力を上げて、日本を、というよりも日本の一部の人間だけを豊かにする、ということが、リニア新幹線の真の目的のように思われます。もとより戦後の、さらに言えば明治以来の日本の近代化は、その路線を走り続けてきたと言えるでしょう。

しかし、問題は「それによって日本は、あるいは日本人は幸福になったのか」ということです。GDPにおいて日本よりもずっと低いブータンの国民が、幸福度においてなぜ日本よりはるかに高いのかを、私たちは真摯に考え直す必要があると思います。

こうした問題を考える時、私には思い起こされる一つの事件があります。それは1993年、和歌山市の万葉の故地・和歌浦の架橋問題をめぐる景観訴訟の最終弁論において、原告団副団長の多田道夫氏による「景観とは何か」という意見陳述です。彼は架橋推進側の「万葉では飯は食えん」という乱暴な議論に対してこう言うのです。

「(私がここで言う倫理とは)、再度「万葉では飯は食えん」の一言に関わって言えば、飯を食う以外の人生の意味のことです。もっと思い切って言えば、飯と引き換えにしても、少しも惜しくない人生の価値のことです。」

私たちはこの裁判で、多田氏が言う「飯を食う以外の人生の意味」を問いたいと思います。リニアでいえば、壊される平穏な暮らしや南アルプスの自然破壊がそれにあたります。そして日本人の幸福度が低いのも、こうした飯を食う以外の人生の意味をないがしろにしてきたためではないでしょうか。経済力だけを絶対善と頼む人たちに対して、私たちは飯を食う以外の人生の意味を強力な武器としてこの裁判の根底に据えたいと思います。

さて最後に裁判長にお願いがあります。

いずれ詳細に陳述したいと思いますが、これまで日本の行政訴訟は、自由裁量論によって、行政側が圧倒的に有利な立場に置かれてきました。しかし、法学者・松下圭一が説くように、わが国が国民主権を基本とする限り、権力の源泉は国民にあるのであり、行政は国民の信託に基づいてこれを執り行う機関にすぎません。とするならば、行政の裁量権が真に権力の源泉たる国民の信託に基づいているかどうかという点についても、問うていく必要があると思います。その意味で、私は本訴訟を通じてあるべき行政訴訟のあり方を追求する機会にしたいと考えており、その点で裁判長のご理解を願うものです。

以上で陳述を終わります。

2016年9月23日