教科書検定と市場経済と忖度と

いま、大田区で、来年選ぶ大田区の教科書の展示会が行われています。

勉強会があったので、参加しました。

ハッとしたのが、教科書会社が減っていて、発行部数が少ない業者から撤退していくと聞いたこと。

教科書作りの現場にも、市場経済的な要素が入り込んでいるだなあ、とあらためて思いました。

しかも、話を聞いていると、文部科学大臣の検定意見、があることで、一種の忖度のようなことがおきていて、教科書に記述されないことが増えているそうです。

文部科学省のHPに教科書検定について、次のように書かれていました。

図書は、文部科学大臣の検定を経て初めて、学校で使用される「教科書」となります。発行者から検定申請された図書は、教科書調査官の調査の後、教科用図書検定調査審議会において専門的・学術的に審議されます。

手間と時間をかけ作った教科書も、文部科学大臣の検定を通らなければ、それらの経費を回収することはできません。

しかも、検定で2度引っかかると、通りませんから、指摘されたら、次の失敗は許されないのです。

例えば、道徳で、教科書全体を通して、学習指導要領の「伝統と文化の尊重、国や強度を愛する態度」に関する内容が「不適切」という検定意見がついて修正した例が目立っているそうです。(前回2件→今回13件)

そうなると、教科書会社は、微妙な表現でリスクをとるより、問題なく検定を通るよう、忖度して記述するように、なりはしないでしょうか。

 

そもそも、下記の事例を読んでいると、

この間の日本の政治が、地域の伝統的な街並みを壊し、伝統や文化を支える一次産業をはじめとした産業構造を壊してきたのに、日常生活から失われてしまった、日本古来の農産物や食や素材や道具や技術をあえて評価しなければならない、というのも皮肉な話だと思います。

 

在来工法ではなく、輸入建材を使った住宅に住み、
国産木材を使う林業は日本で衰退し、
あんこも輸入に依存し、
(小豆の自給率は、大豆以外の豆類と言う統計でみると3割をきっていました)

今や、お団子屋さんも、まちから姿を消し始め、その頃を見計らったかのように、工業製品としてのお団子などがチェーン店含め、出回るようになっています。

教科書に賛美させようとしている地域や郷土や日本は、
もう既に、失われてきていて、特別なものになっているのに、

賛美させるのは、なぜなのでしょう。

失なわれてしまったことを反省し、
もういちど、本気で取り戻そうとしている、とは
政治的に、政策的に見ていると、

どうしても思えないのです。

 

 

 

道徳 検定意見等による修正などの例

修正前
「君は、自分が住んでいる地いきの、どんなところが好きかな」

修正後
「君が住んでいる地いきや日本の、『いいな。』と思うところは、どんなところかな」

修正前

秋田の「曲げわっぱの他にも、昔から、日本各地で大切にされているものがあると。調べてみてもいいね」

修正後
「君が思う日本のよさはどんなものかな。それらのよさを、どうやってよりよいものにしていきたいかな」

修正前
地域のあんこ屋さんが「いつも買いに来てくれるちいきの人のためにも、がんばろうと思うんだ」

修正後
地域のあんこ屋さんが「いつも買いに来てくれるちいきの人のためにも、がんばろうと思うんだ」「これからも日本のあじをつたえていきたいね」

 

修正前
「郷土を愛するこころ」

修正後
「国や郷土を愛する心」

 

修正前
姫路城で木材を組み合わせる「木組み」の技術を紹介

修正後
姫路城で木材を組み合わせる日本古来のすぐれた「木組み」の技術を紹介