こども施策から考えるあれこれ雑感

こども施策は、こどもが生まれたあとのアウトソーシング施策のように見える。

アウトソーシングには、根本的な問題解決は不要。

だから、厚生労働省でも文部科学省でもない、子ども家庭庁

こどもの視点から考えるというのは、どういういみなのだろう。

こどもの人権を保障するのは大切で
それまでも、人権は法制上保障されていたはずだけど

 

守られていない部分があったのは確か

 

こどもの人権を守ると言わず
こどもの権利、こどもの視点、というと、人権という普遍的な価値が

市場経済で補填されるものに変わらないか、、、

 

 

根本的な

 

経済、自然、環境、労働、都市計画、教育、社会保障、、、、

 

抜きに、こどもは、育つのか。

少子化の根本にある問題ことが、問題なのに、そこは言わず
そもそも、こどもの問題は、産めよ増やせよにつながる、センシティブな問題なのに

「少子化」という言葉にしたら、いつの間にかよくなった。

 

根本にある問題に取り組むことが、こどもの数以前に大切だと思う。

こころも体もすり減らす働き方や所得
経済環境、労働環境、の在り方や是非は、不問にしている

いじめは、大人の社会のひずみが原因なのに、そこにどうして取り組まないのか。

「登校拒否」を「不登校」に言い換えたら、学校に行かないことは、良いことに変えられるのか。

一方で、学歴や偏差値が社会のあちこちで「ものをいわせている」のに
学校に行くも、行かないも良いことになるには、

学歴じゃない、生きるすべを用意できている社会にしないと

 

学校に行かないこどもの自立は、誰が、支えるのか。

自分のこどもを育てるに、差しさわりがでるほどに、長時間、働かなければならない、休めない働き方は、
誰が、改善するのか。

 

生きる糧を稼ぐため、こどもを教育できないほど、働く働き方、生き方でいいのか。

自然体験が、自己認識に効果が高いという。
だったら、自然体験行事に参加すれば、自己認識は高くなるのか。

まちの日常的な自然は、
どんどんと減っていて、いくら払って、何回遠出すれば、自己認識は保てるのだろう。

 

日常的に誰もが、花鳥風月、四季の移ろいや、生き物の生態をどこかに感じながら
暮らしているから、
生態系を、その一部である、自分や、まわりの人を、大切にしようと思えるのではないか。

小川も、空き地もなくなって、ツバメも減って、
スズメも見かけなくなりました。

 

日常、誰もが触れられる自然を奪い、家族の団らんを奪い、努力すれば、一定程度の結果が得られる公平な社会を壊し、、、、

 

原因がどこにあるか、誰が考えるのだろう。

 

私は、そういうことをみんなで考えられる社会がいいと思うし
考えて、良くしていける社会がいいと思う。

 

そいういう政治の力に、私はなりたい。