新国立競技場の都市計画にみる社会的合意の形骸化

「神宮外苑と国立競技場を未来に手渡す会」の「新国立競技場、このままでほんとにいいの?」に 参加した。 都市計画課の柳沢厚先生の話しは、最近感じていた多くのまちづくりに共通する問題でもあると感じた。
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ここで、簡単に流れをおさらいすると

1. 2012年7月に新国立競技場のコンペ募集要項
2. 2012年12月コンペ決定
 *2013年1月~2月 計画案の縦覧
3. 2013年2月 新宿区都市計画審議会
4. 2013年5月 東京都都市計画審議会
5. 2013年6月 都知事決定

コンペを募集した時点で外苑周辺は、都市計画の第二種高度地区で20mまでの高さの建築が許容されていたが、募集要項は70mの高さまで建てて良い条件になっている。

コンペが決定たら、都市計画を変更する、のが前提で、計画が進められてきたことがわかる。

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都市計画家、柳沢厚先生は、二つの論点を提示された。

1.都市計画決定事項の手続きの形骸化

「新国立競技場にかかわり、これまで行われてきた手続きは、定められた法令に従ってはいる。 しかし、都市計画の手続きは、最低限ここまでやりましょうというものであり、どんな小さなものにも、都市計画を定める際には、この最低限は求められる。 重要度に応じた社会的合意形成がはかられたか。」

2.風致地区への配慮

「計画内に風致地区がある。民間開発の場合、行政が、風致地区の許可を行う。(ちなみに、今は、東京都。今年4月から区市に移行)
しかし、行政の場合、(住民との信頼が前提となるため)許可ではなく、協議になっている。
今後どのような協議が行われるのか。」

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日本の都市計画は、これまで、行政の発意で進められてきているケースが圧倒的だ。

1.の社会的合意形成とは、民主主義に基づく、自治の問題だが、日本の場合、2.に関連するが、行政発意で行ってきていても、一定程度、行政と住民との間の信頼の中で、結果としての合意が成立していたのではないだろうか。

そして、それの信頼が、これまで住民が期待していた信頼とは変わってきてるのではないだろうか。

たとえば、2014年3月25日の朝日新聞が、興味深い記事を掲載している。

2005年に、東京都が外苑の景観を守るために、高層建築、それも、2kmも距離の離れているビルの高さを低くするよう「申し入れ」事業者もそれに従っているというのだ。
しかも、条例などの根拠のないあくまで「申し入れ」だが、東京都はあえて、外苑の景観を守るために行っているわけだ。
これを新聞は、景観の保護を強化していた2016年のオリンピック招致石原都政」と現在の新国立競技場を対比させて報じている。

今、問題になっている新国立競技場の募集要項は、2012年7月には出来あがっているから、都知事は同じし石原慎太郎氏だが、東京都は、2005年当時と2012年では東京都の姿勢が変わっているというように見える。

現在の新国立競技場の案に疑問を持っている者から見れば、柳沢厚先生の指摘するところの、行政と都民との「信頼」が2005年当時は成立していたわけだが、いまや、「行政とは、最低限の法令を守る程度の存在」に変わってしまったということを知っておかなければならない、ということになる。

行政が、最低限の法令を守る程度の存在になっているなら、市民は、社会的合意形成に、もっとこだわっていかなければならないということだ。

民主主義の形骸化は、行政だけではなく、市民側の自治の問題でもある。

その点について、集会で、「専門家等が点検しておく必要が有った」といった発言があった。
専門家も必要だが、気づくことのできる多くの存在が必要だ。

そして、それは、都市計画に限ったことでは無い。