温故知新その2

曾祖父の話をしましたが→温故知新

曾祖父の弟も
明治時代に、県知事を務め、
その後、警視総監、貴族院議員、企業の監査役など努めています

父の名は祖父と、この曾祖父の弟名の一字が使われているので
曾祖父の名を見るたび、父を想い出します

調べていたら、行った県有林事業についての記述が残っていました。

県有林の記

ここには、以下のような記述があります

森林豊かな地は、天土地がうまく調和し、水利は確保され、災害も起こらなかった
明治維新以降様々な事業が起こり、木材の需要が増え乱伐の弊害に陥った

自然の力はバランスを失い、季節外れの暑さ寒さが訪れるようになり、
霜害や水害がたびたび起こるようになった

木を植えるよう推奨したが想うような成果が上がらず
知事が県自らが森林の経営にあたることを考え職員に計画の作成を命じた

目亭は、植林普及と自治の財政的基礎を固めること
これが、県有林の起こりである

今の大規模災害を、予見していたかのような、深い知見は、
今、引き継がれていると言えるでしょうか。

末尾は「後世の人々はどうして懸命に努力を重ねずにおられようか」でしめくくられています。

この言葉を深く胸に刻み、
区政に活かしていきたいと思いました

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詩経では「初め有らざることなし克く終り有ること鮮なし(何事にも始まりがあるが、それが最後までよく成し遂げられることは少ない)」という。

ましてやこの事業のようにこの上なく遠大な計画で、しかもその成果をはるか200年先に待たなければならないようなものはなおさらである。

それゆえ後世の人々はこの事業をしっかりと継承し、その経営に勤勉に努力して怠らなければ信州の山々は鬱蒼として再び昔の姿をとりもどし、長野県政もまたこれを拠り所として豊かな資源を様々に活用、開発して、その自治の基礎はさらに一層強固なものになるであろう

しかし、もしこれをおろそかにすれば山林は日一日と荒廃し、やがては県民はその生活の頼みとするものを失ってしまうことであろう

関知事はこのことを深く心配して県会議員と相談し、碑を議事院の前に立ててその事由を記し、後世の人々に残すことにしたこの事業を全うして成果を上げることができるか否かの責任はまさに後世の人々にある。そしてその恩恵をこうむるのもまた後世の人々である。後世の人々はどうして懸命に努力を重ねずにおられようか

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県 有 林 の 記

 信州はわが国の最高地に位置し、山林原野が九割を占めている。その面積は150万町歩余りで、長野県がこの信州を管轄している。
その昔は森林が繁茂し、老松は空を覆わんばかり、古杉は天にも届きそうであった。また桧、柏、樅、楢などの仲間も鬱蒼と山の頂きを覆い、沢にあふれていた。天と地はうまく融和して、雨の降り方も日の照り方もみなほどよいものであった。大風や雷の日も定まった時期に起こり、水利は確保され、災害も起こらなかった。
明治維新以降様々な事業が興り、木材の需要は日ごとに増えた。急ピッチで絶え間なく伐採が行われ、ついには乱伐の弊害に陥った。その鬱蒼としていた山々は丸裸となって岩や土をむき出しにし、かつての面影を失った。それのみでなく、自然の力はバランスを失って、季節外れの暑さ寒さが訪れるようになり、霜害や水害がたびたび起こるようになった。そのため、県は次々に通達を出して、木を植えるよう奨励したが思うような成果は上がらなかった。県知事の関清英はこのことを深く嘆いて、県自らが森林の経営に当たることを考え、職員に計画の作成を命じた。 その目的のひとつは、広く模範を全県に示して植林の普及啓発をはかることであり、いまひとつは、県有財産を造成することによって自治の財政的基礎を固めることであった。これが県有林の起こりである。
その計画の概要は、県下各地の御料林及び国有林約7500町歩の払い下げを国に願い出てこれを県有林とし、31年間で植林を終え212年間でこの事業を完成し、その間に28億円の収益を得、その後も毎年35万円の収益を確保しようというものであった。明治36年にこの案が出来上がり、これを県の参事会に諮って、ついに県議会に提案する運びとなった。議員はみな賛成したので農商務省に願い出たところ、省議でもまた快く受け入れられ、この申請は特別に許可された。そこで新たに苗畑を作り、山野を吟味して良い土地を選び、こうして漸く植林の事業が始まった。実に明治37年、日露開戦の年であった。

詩経では「初め有らざることなし克く終り有ること鮮なし(何事にも始まりがあるが、それが最後までよく成し遂げられることは少ない)」という。ましてやこの事業のようにこの上なく遠大な計画で、しかもその成果をはるか200年先に待たなければならないようなものはなおさらである。それゆえ後世の人々はこの事業をしっかりと継承し、その経営に勤勉に努力して怠らなければ信州の山々は鬱蒼として再び昔の姿をとりもどし、長野県政もまたこれを拠り所として豊かな資源を様々に活用、開発して、その自治の基礎はさらに一層強固なものになるであろう。しかし、もしこれをおろそかにすれば山林は日一日と荒廃し、やがては県民はその生活の頼みとするものを失ってしまうことであろう関知事はこのことを深く心配して県会議員と相談し、碑を議事院の前に立ててその事由を記し、後世の人々に残すことにしたこの事業を全うして成果を上げることができるか否かの責任はまさに後世の人々にある。そしてその恩恵をこうむるのもまた後世の人々である。後世の人々はどうして懸命に努力を重ねずにおられようか。 私は庁議に加わって、ことの顛末をよく承知している。よってその概要をここに記すものである。

明治38年3月
長野県知事 従四位勲三等 関 清英篆額(題字)
長野県書記官従五位勲五等 横田太一郎撰(詩文)

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